機関誌「みんいれんTOKYO」2025年8月号

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機関誌「みんいれんTOKYO」2025年8月号

医療機関での相談から被爆者運動に関わって、その想いを紡ぎたい

被爆者の方たちの体験に耳を傾けましょう 原爆投下80年
日本被団協相談員 原 玲子さんに聞く

今年は広島・長崎に原爆が落とされて80年。東京民医連の各病院や診療所は設立当初から被爆者に関わり、核兵器廃絶の運動を続けてきました。

被爆者の多くが80歳を超えるなか、私たちには被爆の実相や核廃絶を願う被爆者の思いを引き継ぎ、核兵器廃絶を実現していくことが求められています。今回、代々木病院にソーシャルワーカーとして入職し、被爆者医療に関わり、現在も日本被団協の相談員として被爆者の相談活動に従事されている原玲子さんに、被爆者の思いと被爆者の求めてきた運動について話していただきました。

--どうして、被爆者に関わるようになったのですか

私が就職した1967年に代々木病院が被爆者の健康診断の指定医療機関になりました。それまでは日赤とか都立病院でしか受診できず、しかも検査しかしてもらえず、不満を持たれていたようでした。当時被爆者専門外来を担当されていた千葉正子医師に受診者すべて問診をとるように言われたのが最初の被爆者とのかかわりです。

問診で様ざまな被爆者の訴えを聞きました。代々木病院にたどり着くまでに2度自殺を図ったという方もいらっしゃいました。1957年に制定された「被爆者の医療に対する法律」で被爆者と認定された方の医療は無料でしたが、差別や偏見でままならない日々の生活への支援はありませんでした。

差別偏見もひどかったです。「被爆者同士でタクシーに乗り、被爆した時の話をしたら『うつるから降りてくれ』と言われた」「親が被爆者手帳の申請をしていたが孫が結婚するまで本人に渡さずにいた」というように被爆者であることをひたすら隠して生きてきた人たちの思いを多く聞き取りました。20代の自分には受け止めきれないとも思いましたが、ひたすら傾聴し、それも相談の一つだということを学びました。多くの被爆者の体験を聞くことで自分の人生も変わっていったように思います。

--被爆者運動との関わりは

被爆をするということは、体だけでなく、心や暮らしそのものを壊すものでした。被爆者の抱える具体的問題の相談を受け、支援する中で被爆者運動に関わってきました。1977年に国連NGO主催で「被爆問題国際シンポジウム」が開催されました。被団協などの日本準備委員会は一般調査、医学調査、生活史調査の3つの被爆者調査をもとに「被爆の実相と被爆者の実情」NGO被爆問題国際シンポジウム報告書を発表しています。その調査には代々木病院をはじめ、全国の民医連の病院が参加しています。

被爆者は被爆の実相や被爆者の健康や暮らしの実情から出発した要求実現のために運動しました。シンポジウムをきっかけにヨーロッパなど海外で被爆の実相を訴える機会も増えました。こうした活動が1994年に被爆者援護法の制定につながり、被爆者に医療と福祉にわたる総合的な援護をすることが決まりました。しかし、被爆者運動の要求はこれで満たされたわけではありません。援護法はあくまでも社会保障の範囲内の援護です。未だに被爆で亡くなった方への補償は一切行われていません。

--今、被爆者が抱えている問題は

被爆者は高齢化しています。必要な支援の中心が医療から介護になってきました。私はケアマネジャーをしてきたこともあり、被爆者からの介護相談を受けることが増えました。全日本民医連の介護担当にも協力してもらいQ&Aも作りましたが、すべての被爆者が被団協とつながっているわけではありません。被団協のノーベル平和賞受賞を記念して、すべての被爆者本人やその家族、利用している介護事業所に活用していただきたいという思いから、被爆者健康手帳と介護保険制度の関係をまとめた「被爆者のしおり」を発行しました。東京民医連の事業所でも活用して下さい。

--ノーベル平和賞授与式に参加されて

長年、被爆者の相談を受けていたことで、私も参加者のメンバーに選ばれたようです。ノーベル委員会のフリードネス委員長は本来、被爆80年の今年の受賞にする予定でしたが、ウクライナやパレスチナの戦禍もあり、「サプライズ」で選んだそうです。被団協も報道で受賞を知ったようです。

フリードネス委員長は以下のように受賞理由を話しています。「被爆者たちは道徳的な羅針盤を与えてくれました。今年の平和賞受賞は生きる権利という最も基本的な人権に関わるものだと言えます」「世界の安全保障が核兵器に依存するような世界で文明が存続できると信じるのは浅はかです。世界は人類の壊滅を待つ牢獄ではないはずです。たとえどれほど長く困難な道のりであっても、日本被団協から学ぶべきでしょう。決してあきらめてはなりません。だからこそ被爆者たちの体験に耳を傾けましょう」平和に生きる権利、すなわち戦争のない社会をもっとも基本的な人権であるといいました。被団協の田中煕巳さんも授与式の演説で「日本政府は被爆して犠牲になった方に一切の補償をしていない」ことを繰り返し述べられました。戦争を遂行した責任をとらない政府はまた戦争を行いかねないのです。被団協のノーベル平和賞受賞は「各国の政府の行為による戦争を起こさせない」という意義があります。

--民医連職員のみなさんに伝えたいこと

被爆者も高齢化し、病院に通院できなくなり訪問診療になる方が増えています。また、被爆者集団検診でもほとんどが被爆2世の方になっており、直接お話しを聞く機会は減っています。

その中でも、直接でも間接的にでも被爆の実相を知って「もし、自分が被爆したら」という想像をしてほしいと思います。

参議院選挙で東京選挙区から当選したある議員は、安全保障にとって「核兵器を保有することは安上がりだ」と言いました。そんなことを言えるのは被爆の実相を知らないからです。想像できないからです。

世界で、日本で戦争の足音が聞こえる時代だからこそ、「被爆者の方たちの体験に耳を傾けましょう」


いま伝えたいこと

つくろい東京ファンド 小林 美穂子

合言葉「住まいは人権」 第1回困窮者支援の現場から

私は中野区を拠点に生活困窮者の支援をする一般社団法人『つくろい東京ファンド』でスタッフをしています。2014年に設立された当団体では「住まいは人権」を合言葉に、家を失くした方々にその背景を問うことなく、無条件でプライバシーが守られる安心安全なシェルターを提供する「ハウジングファースト」型の支援をしています。

従来型の支援は、住居喪失者に対して相部屋施設で集団生活をさせ、一人暮らしができそうだ、と行政が判断して初めて自分のアパートに転居できる「ステップアップ型」。これに対し、「ハウジングファースト」は、まず独立した部屋があり、一人ひとりに必要な生活、医療、介護などのサポートを足し、地域生活を支えています。

必要なサポートはなにかスタッフは日々奮闘中

数人で運営する小さな団体は、設立から11年が経ち、その間にコロナ禍を経験しました。相談者の急増に伴い、シェルターをどんどん増やしました。コロナ禍は難民や仮放免者の困窮も可視化したので、支援対象も多様化し、芥子(けし)粒とは言いませんが、ゴマ粒ほどの小さな団体はしっちゃかめっちゃかです。

もはや何をやっている団体なのか、簡潔に説明するのが難しくなっています。スタッフの数はさほど変わっていないのに、ニーズと業務だけが爆発的に膨れ上がり、お互いが何をやっているのか、どこにいるのかも把握できないほどに忙しく、飛びまわって炸裂するねずみ花火のよう。

世の中の状況に応じてアメーバの様に形を変えながら転がる団体です。では、私が何を担当しているか、これまた一言で表すのが難しいのです。地域定着後の居場所兼就労の場「カフェ潮の路」の名コック(自分で言ってみましたが現在コックは休業中)に始まり、あちこちの自治体で生活保護の申請同行や、福祉事務所による扶養照会や水際対策に介入したり。そうかと思えば記事の発信などのライターまがい、ある時は外国人支援を手伝って通訳者となり、毎週月曜日には長い付き合いになる高齢者の部屋を掃除するヘルパー。直近では群馬県桐生市の生活保護行政の追及に一年半ほど費やしました。東京新聞の小松田健一記者と一緒に『桐生市事件』(地平社)にまとめ、ジャーナリストの真似事もしました。簡単に言えば、何でもするおばさんです。

何でもするおばさんの私は「いつも怒っている人」と思われがちです。確かに決して温厚ではありませんが、特にこの国では正しく怒ることは大切だと思っています。これからも要所要所でぷんぷん怒って、目からビームも出していきます。

新たな関係性へ育ちゆく
「支援する側」「される側」

私生活では猫を溺愛し、動物やたいがいの虫を愛し、観察するのが趣味。小さな敷地で野菜を育てたり、木々の葉音を聴いたりする時間がなによりの癒しです。

人生、何が起こるか本当にわからないもの。子ども時代をアフリカやインドネシアで過ごし、二十代でニュージーランドやマレーシアで働き、帰国後は自動車メーカーの通訳者となってキャリア街道をひた走る。不惑の年に生活困窮者支援の現場に迷い込み、惑いに惑いながらも15年も居続けいるのは、そこで出会う人たちの面白さや魅力、積み重ねた関係性の価値が自分の中で大きくなったからだと思います。

出会った時は「支援する側」と「される側」だった関係も、時間とともに平らになっていき、助けたり、助けられたりする関係性に育つ。その過程で私が学んできたことは、それまで長い年月をかけて培ってきた価値観をひっくり返すほどのものでした。

民医連のみなさんと連携して

相談者や利用者さんとの関係性だけではありません。若い同僚たちをはじめ、支援を通じて出会う多くの方々からも刺激と影響を受けています。民医連の皆さんはその筆頭で、スタッフ一同、足を向けて寝られないほどお世話になってます。健康保険に加入できない外国籍の方々を無料低額診療で支えてもらったり、生活保護受給中で医療は受けられるものの、個性が際立ちすぎていたり、なかなかご自分の意思をうまく伝えられない、あるいは頑固一徹で行く先々の病院でケンカしてしまうお年寄り、極度に病院が怖い人などに対しても、忍耐強く優しく診てくださいます。

どんな相手も一人の隣人として、その方の尊厳を大事にしていると感じます。あちこちの病院で煙たがられ、もはや行ける病院がなくなってしまった方が、民医連系のクリニックにはずっと通院している。そして、予約日が近づくと「床屋に行ってさっぱりしてから行きたい」などと言うようになり、クリニックの皆さんに声をかけられて照れている姿を見ると、ちょっと泣きそうになります。一体、これまで何人がお世話になっているか。本当に、いつもありがとうございます。
しなやかに闘いたい

この記事が皆さんに届くころには参議院選挙も終わっています。過去に類を見ないほどに不穏な空気が世の中を覆っていますが、誰もが生きやすい社会を目指す皆さんと、竹のようにビヨンビヨンとしなりながら闘っていきたいです。折れてたまるか。

これより一年間、生活困窮者支援の現場から見える景色をお届けいたします。よろしくお付き合いくださいませ。
 (※見出しは編集部)

プロフィール 1968年生まれ。群馬県出身。つくろい東京ファンドスタッフ。著書に『家なき人のとなりで見る社会』(岩波書店)、『コロナ禍の東京を駆ける』(共著、岩波書店)、『桐生市事件』(共著、地平社)。マガジン9にて連載中。


輝け看護!

苦痛緩和のためのケア実践

私たちは、看護を提供していく上で、どのような状況下であっても、苦痛の緩和をしていくことを大切にしています。
今回、苦痛の訴えが強く、緩和治療に移行するまでの過程で、難渋しながらも患者の思いを尊重し、苦痛緩和に繋げることができた事例を紹介します。


患者はクローン病末期で入退院を繰り返し、今回も腹痛・下痢・血便等で入院されました。当初から苦痛の訴えが強く、完全に症状をなくすことは困難な状況でした。訴えがある度に、なんとかその苦痛を和らげてあげようと、温罨法(おんあんぽう=身体の一部を暖める看護技術)や、時には話を傾聴し、薬以外で実施できるケアも提供していました。


ある日のカンファレンスで、「もう限界ではないか」という意見で一致しました。私たち看護からの提案は、モルヒネの使用でした。医師がモルヒネの使用を患者へ提案すると、患者は「モルヒネ=死」というイメージを持っており、「使い出したらどの位で死んでしまうの」「まだ使いたくない」と、使用に対して強い抵抗感がありました。


このままでは、苦痛を生じたままで最期を迎えてしまうと考えられました。そこで、モルヒネ使用について、もう一度患者と話す時間を設けました。本人の気持ちを確認すると、変わらぬ思いを訴えました。
その後も薬の使い方や、使用後の変化など、医師も含めて何度か説明をしました。すると徐々にモルヒネに対する印象が変化したのか「なら使ってみようかな」という言葉を聞くようになり、緩和治療を開始することとなりました。

苦痛を緩和するために、患者の思いを傾聴し、一緒に考えて話し合い、実践することができるのは、患者中心の医療チームである証ではないかと思います。
(みさと健和病院 河合 千絵)

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