東京民医連

東京民医連のご紹介

みんいれんTOKYO(機関紙)1面の記事の抜粋です

小名浜生協病院で支援活動 震度6弱の余震が2回も

高齢者は相当なダメージ 患者励ます被災職員

 4月11日 東京駅から高速バスに乗り、10時半にいわき市小名浜生協病院に到着。全日本民医連の方々とオリエンテーションを受け、さっそくクリニックに配置され採血、注射などを主におこなうことになりました。6年間現場にいなかったので少々心配しましたが、クリニックの看護師さんたちに指導をうけながら無事に乗り越えました。

空が真っ黒

小名浜港の惨状
小名浜港の惨状

 夕方5時20分過ぎ、乗用車を借りアパートに帰ろうと駐車場でエンジンをかけたとたん、震度6弱の余震が発生。ここが震源地と知りました。
 ハンドルをしっかりつかまえていないと体が揺すぶられる感じ。同乗の看護師さんと病院に避難しました。空は真っ黒く、稲光、雨が激しく降っています。3月11日の日もこんな天気だったと。病院周辺は停電となり断水も。なんとかアパートに帰り、東京や神奈川の支援看護師ら3人で懐中電灯の灯りの中、頂いたお弁当を食べました。

また断水に

 翌12日はいいお天気に。クリニックでは患者さんもだいぶ戻ってきています。午後2時過ぎ。いきなり地面から突き上げるように震度6弱の余震が発生。
クリニックの職員さん達に「来る早々、大変だね」とやさしく言葉をかけられました。みなさんが思ってくださるより不安は無く、直下型の地震とはすごいものと体感しました。
 しかし、大きな2回の余震の影響により、病院の給水が再度ストップし自衛隊の給水車が何回もやってきていました。幸いアパートは住吉町というところにあり、断水は無かったのでお風呂に入ることができました。職員や患者さんの中には、一度も給水されないままの方がいます。「いつまで苦しめるのか。生きていてこんな災害にあうなんて思いもしなかったよー」と話しています。

液状化で…

小名浜生協病院のみなさんと(前列左が工藤看護師)
小名浜生協病院のみなさんと(前列左が工藤看護師)

 14日木曜日。一日休みを頂きました。夜勤明けの看護師さんが車で被災場所を案内してくれました。最初に小浜港へ。転覆した船はそのまま。津波により倒壊した家々。後片付けははかどらない様子です。その後、いわき市最大の観光施設であるマリンパークへ。
 敷地は液状化でコンクリートがはがされています。海のすぐ近くにあり、地震による液状化や停電で展示されていた魚介類はほぼ全滅。すぐ隣にはタンカー等の寄港する小名浜港。悲惨な状況。魚の加工場や海産物店舗も津波により全壊。産業道路(片道3車線)も津波をかぶり、道路沿いの店舗や会社が大きな被害を受けています。大震災の直後は、流された巨大なタンカーの上部(鉄の塊)や膨大な数の車が道路上になぎ倒されたままだったそうです。
 小名浜港の先は小さな集落が海岸沿いに多数あります。中でも豊間という地域は200世帯程の小さな地区。そのうち半数以上が津波で全壊。通院していた患者さんもいて、目の前で孫が流されてしまい、外来に来られた際に「俺がやられればよかったよ」と泣いて話していたそうです。

脱水者多く

 クリニックの患者さんは誰かしら地震や津波の被害をうけています。避難所からようやく自宅に帰ってきたけれど、4月11日の余震でまた断水になった家、電気もきていない家、糖尿病の患者さんは脱水(十分飲めず食べられず)の方が多く、不眠、食欲不振、不安などで高齢の患者さんがそうとうダメージを受けています。クリニックの看護師さんたちは患者さんからよく話を聞き、共感されています。職員自身も被災されています。それでもなるたけ明るく、「生きていかなくてはね」と患者さんを励ましていました。
 16日の土曜日、午前中の業務が終了し、クリニックの看護師さんたちに見送られ、高速バスで東京まで帰ってきました。この日も震度4弱の余震があり、直後に雨や稲光と暗雲。自然の不思議を実感。
 福島第一原発の事故があまりにも被害甚大なため、いわき市の津波被害はあまりメディアにのらないようです。医療支援と地域の方々への支援の両方が今後重要となっていくのではないでしょうか。(東京民医連・工藤貴美子)