東京民医連

東京民医連のご紹介

みんいれんTOKYO(機関紙)1面の記事の抜粋です

視角

 最初の患者が発生したとされるのが1953年、公式に病気として報告されたのが1956年、原因が確定し公害と認められるのはそれから11年後。その間「奇病」と呼ばれ、発症が続発したことから伝染病として隔離が行われたり、家系を疑われたりしていわれない差別が生まれ、現在でも払しょくされていない▼工場排水が原因と疑われている最中も、市長をはじめとする市の代表は県に対し「工場排水を止めることは工場を潰すことになり、市の維持発展のために工場を守れ」という陳情をおこなう。工場は排水経路と排水口位置を変更し汚染は拡大する▼1959年、厚生省食品衛生調査会の特別部会は「主として中枢神経系の障害される中毒性疾患であり、その主因をなすものはある種の有機水銀化合物である」という明快な報告を出すも解散。熊本大学研究班も順次研究経過発表を始めるが、化学産業界から「爆薬説」「アミン説」などの猛烈な巻き返しが続いた。言わずと知れた水俣病である▼8月12日、ノーモア・ミナマタ東京第2次訴訟が提訴された。これまで司法は何度か行政を断罪し、認定基準の不適切を指摘しているが司法と行政の判断は異なると政府はうそぶく。孫子曰く「故に善く戦う者の勝つや、奇勝無く、智名も無く、勇功も無し」、たたかいは続く(博)