東京民医連

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みんいれんTOKYO(機関紙)1面の記事の抜粋です

東京民医連第7回平和学校開く
戦争の加害、被害の両面を学んだフィールド研修

 2018年7月より始まった平和学校は、9月に第3クール、フィールド研修とグループワークを実施。受講生12人は、明治大学の生田キャンパスにある登戸研究所(旧日本陸軍の秘密戦兵器等の開発研究所)、女たちの戦争と平和資料館(Wam)、東京大空襲・戦災資料センターの3か所に分かれて訪問しました。このうち、東京大空襲・戦災資料センターには、第1班の3人が訪ね、被災者の一人である上原敦子(80歳)さんから、お姉さんが描いたという地図を使ってお話をうかがいました。
 東京大空襲・戦災資料センターは民間募金と用地の無償提供により、2002年に空襲の最も激しかった江東区北砂に完成。1945年3月10日、2時間半の間に300機のB29から投下された33万発の焼夷弾により、10万人が犠牲となった東京大空襲の文献や物品を広く収集し、被災者の体験を聞く機会を設け事実と記憶を伝えていく役割を果たしています。以下は話していただいた上原さんの体験です。
 「1945年3月、当時7歳で深川2丁目に住んでいた。深川は西に4kmいくと皇居、西の墨田川と東に江戸川に挟まれた下町でまさに庶民のまち。この頃、東京には食べものが無く、また言論の自由も無くなっていたため、ひそひそ話をしている父親に近寄ると父の友人が『3月10日に空襲になるんじゃないか』と話しており、3月9日の夜はリュックに救急袋を入れ枕元に置いて寝た。
 警戒警報がなった。午後10時半だったと思う。すぐに家の地下の防空壕に入り、0時過ぎ防空壕から出た。空襲警報は鳴っていなかった(後でわかったことだが『天皇陛下を起こすと申し訳ないから』という理由で)。40年ぶりの寒波で外は寒く、永代橋に向ったが火が迫り多くの人が川に飛び込んだ。私たち親子は中央区の聖路加病院に向かったしかし火が遮り行けなかった。空襲にあったときには風上に逃げろと言われていたので、地面をはって風上に進んだ。やがてB29の音がしなくなった。逃げる間、痛い熱い辛いと感じることはなく、どうやったら生きられるかを考えていた。夜が明けると清澄通りは真っ黒な遺体でいっぱい。遺体をまたいでいった。下半身を焼かれた女性はまだ意識があり横に小さな子供がいた。地獄だと思った。生き残ったのは奇跡だった」
 また、上原さんは「自分は、何度も空襲にあって一番苦労してきたと思っていたが、沖縄の地上戦の話を聞いてもっと大変な目にあった人がいることを知った」とも話されました。訪れた受講者は「アメリカの残虐な空襲について尋ねると『日本人を人間だと思わなかった』というアメリカ人が多かったと聞いて、怒りを超えてあきれた」などの感想が出されました。
 受講生たちは、フィールドで学習した、重い言葉や内容を訪問後のグループワークでさらに深めました。