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みんいれんTOKYO(機関紙)1面の記事の抜粋です

戦禍に苦しむ人びとに思いをよせて声をあげ続けたい
フォトジャーナリスト 安田菜津紀

大国に翻弄され続けるガザ地区

 「爆撃が続いていて、部屋の奥で震えながら祈っています」―――パレスチナ・ガザ地区の友人、アマルから、緊迫した声が届いたのは、イスラエルによる今年5月の攻撃の最中だった。彼女はまだ4ヵ月の子どもを抱きしめ、ただただ攻撃が止むよう、ひたすら祈っていた。電気も通信状況も不安定な中、「携帯のバッテリーは大事に使って」と伝えていたものの、「少しでも日本の人たちに、今起きていることを知ってほしい」と、彼女は連絡がつく限り、現地の状況を知らせてくれていた。
 ガザ地区は東京都の三分の二ほどの面積で、そこに約200万人が暮らしている。その人口の半数が、国連からの食糧支援を受け続けている状態だ。失業率も50%近くとされ、若者に至ってはその率が更に高くなる。なぜこれほどの窮状が続いているのか。ガザの歴史を紐解いていくと、近代史だけでもいかに大国に翻弄され続けた地であったかが浮き彫りになる。イギリスの委任統治領だったこの地は、第二次大戦後、イスラエル建国の折に起きた第一次中東戦争の過程で、エジプトに組み込まれた。そして1967年の第三次中東戦争によりイスラエルに奪われると、その土地はユダヤ系住民の「入植地」となっていく。本来、占領地での入植活動は国際法違反だという指摘がなされてきたが、イスラエルは国家としてその「入植」を推し進めてきた。1993年のオスロ合意により、ガザ地区はようやくパレスチナ自治区の領土として認められたものの、この地に平安が訪れることはなかった。
 2018年2月、私は初めてガザ地区を訪れたが、この地が「天井のない監獄」と呼ばれている理由を目の当たりにすることになる。イスラエルはガザの周囲を壁やフェンスにより完全封鎖していた。この地は2014年にも激しい攻撃にさらされている。壁に食い込む無数の銃痕、横たわる瓦礫や半壊の家々は、まるで当時から時を止められてしまっているかのようだった。再建するための資材の搬入もままならないのだという。
 この時、友人となったアマルが、「自慢の場所なの、ぜひ見てほしい」と案内してくれたのが、ガザの古い街並みと隣り合う地中海だった。穏やかな海がエメラルド色に輝く様に、思わず息をのんだ。そんな私を横目に、アマルはため息まじりに語った。「ね、きれいでしょう。だけどね、安心して泳げないの。ガザには下水処理施設を動かす燃料も十分にないから、汚水の一部を海に流すしかないのよ。それに、漁師たちは遠くまで船を出すこともできない。いつイスラエル兵に撃たれるか分からないから……」。
 こうしてガザ地区は、他の国際社会から隔絶された、構造的暴力の中に置かれてきた。

 

軍事力行使の犠牲は市民に

 今年5月の攻撃の発端は、東エルサレムでの緊張だった。イスラエルは第三次中東戦争以来、東エルサレムを占領し、エルサレム全体を国の首都と主張してきた。一方のパレスチナ自治政府は東エルサレムについて、将来建国を目指す国家の首都になるとしている。だからこそ2018年、当時の米国・トランプ大統領が、「エルサレムをイスラエルの首都と認める」「米国大使館をエルサレムに移す」と一方的に宣言した際、パレスチナ側の住人たちは強く抗議したのだ。
 この東エルサレムのシェイク・ジャラー地区では、イスラエル人入植者がパレスチナ人の住人に立ち退きを迫り、パレスチナの市民による抗議活動が起きていた。こうした中で5月、ガザを実効支配しているイスラム原理主義組織「ハマス」が、イスラエル側にロケット弾を発射し、イスラエル側は「テロリストへの報復」を掲げガザを空爆した。
 あらゆる犠牲があってはならないことは大前提だ。ただ、パレスチナ側とイスラエル側は被占領側と占領側であり、軍事力にも圧倒的に格差がある。11日間の攻撃で、ガザでは一時、学校などに少なくとも7万5千人以上が避難。医療施設やそこに続く道路、メディアが入るビルなどが空爆を受け、子ども66人を含む242人が犠牲となった。爆撃された中には、医療施設や、そこへと続く道路も含まれている。「テロリストへの報復」という建前を明らかに逸脱していると言わざるを得ない。

 

未来を閉ざす暴力を止めるために

 2018年に訪問した当時、とりわけ印象に残ったのが、小中学生の通う学校だった。私が訪れたとき、ちょうど子どもたちは中庭で熱心に何か作業を続けていた。ガザでは2012年から毎年3月、東日本大震災で傷つき、命を落とした人々を悼む凧揚げが続けられているのだ。子どもたちはその準備の最中だった。
 「私たちは爆撃によって家を壊され、街が変わり果ててしまう様子を目の当たりにしてきました。自然災害によってあれだけ多くの街が破壊されるのは、どれほどの苦しみなのかと心が痛みました」。テレビで津波の映像を見ていたという14歳の少女は、当時の衝撃をこう振り返る。気づけば彼女の頬には涙がつたっていた。
 今年5月の攻撃後、その少女とは連絡の取れない状態が続いている。彼らの未来を閉ざそうとする暴力には、国境をこえて声をあげ続けたい。
 *見出しは編集部

 

安田菜津紀さんのプロフィール

 1987年神奈川県生まれ。NPO法人Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)所属フォトジャーナリスト。同団体の副代表。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で難民や貧困、災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。著書に『写真で伝える仕事-世界の子どもたちと向き合って-』(日本写真企画)、他。上智大学卒。現在、TBSテレビ『サンデーモーニング』にコメンテーターとして出演中。