2021年新歓企画第1弾 後編「価値とは」~生命の尊厳

【第2部】「価値とは」~生命の尊厳

みさと協立病院精神科 梁取慧先生

精神科医になった経緯

私は、千葉県松戸市に生まれ、中学までは地元の公立学校に通って、その後、県をまたいで茨城県取手市にある私立高校に進学しました。当時から心理学や精神科に興味を持って、そういう道に進めたらいいなと思いながら医学部を目指した経緯があります。大学在学中は学内外のオーケストラに所属してビオラを演奏していました。卒業後は、みさと健和病院での初期研修を経て、現在所属するみさと協立病院で精神科医として仕事をしています。

 

小さい頃から医者という職業が、身近だったんですね。幼稚園の頃から風邪をひきやすく、扁桃腺をよく腫らして、しょっちゅう38~39℃と熱を出し、その都度近くの開業医さんにかかっていました。小学校の卒業文集にも将来の夢は「医者になる」といったことを書いていました。

 

また、生まれ育った松戸市が好きで、空気感がすごく好きなんですよ。今でも松戸に住み続けていますし、今働いているところも川を挟んで隣の三郷市ですし、この地域で医療を行って地域の医療に少しでも貢献したい、とずっと思っています。

 

中学時代には、医師以外の職業も考えたことがありました。しかし進学した高校で医学部進学クラスに入る中で、やっぱり自分は人への興味が強く、人と関われる医者に魅力を感じているんだと、改めて明確に医学部を目指すようになりました。

 

医学部を受験している中で、民医連の入試宣伝に出会いました。大学の面接試験が終わった学生さんたちに「こんにちは」と民医連の職員さんが声をかけて、アンケートを取りながらコミュニケーションをとって、「今後実習とか興味あったらどうぞ」なんていうことをやっています。そうした中で、自分が受験した大学でみさと健和病院の職員さんと出会って「あら、地元の近くでよさそうな病院がある」と知りました。最終的に医学部に合格し、東京に居続けることもできたので、みさと健和病院にお世話になりながら、学生生活を送ってきました。

 

民医連に加盟しているみさと健和病院の法人、グループがやっている医療活動・福祉活動というのが、本当に地域密着型なんですね。急性期から緩和ケアまでを行う総合病院だけではなく、訪問診療や訪問看護もやっているし、福祉分野では訪問介護もやっていて、高齢者施設、グループホームもやっている。そういったところで総合的に勉強したいと思って、奨学生になったという経緯があります。

 

家庭医とか総合診療の診療スタイルは、自分にすごくフィットするものなんです。内科訪問診療の実習をしたこともあって、お宅にお邪魔して診察して、生活がありありとわかるというのは、とても素敵なことだと思ったんです。だから、そういう道もあると考え、診療科の進路はすごく悩みました。

 

最終的に初心にかえって精神科の道に進もうとするわけですが、精神科といえども医者です。心をみるなかでも体の具合が悪くなる方もいらっしゃるわけで、そういった場面できちんと病気のアセスメントをして、適切な医療につなげるプランを立てる能力が求められる、と思いました。なので、初期研修では身体科を一所懸命に学びました。そのうえで、専門は精神科に進むんですね。初期研修の中で感じたことは、家庭医とか総合診療は、内科医として仕事をする部分が強いので、その患者さんの生活や人柄をみる前に、第一には病気のことを見なければいけない。それはもう至上命題だと思ったんです。

 

そこがずっともやもやしていて、自分はそういう人柄、心、生活をみるというところがすごく大好きでした。改めて精神科というものに初期研修のローテートで触れた時に、病気をみること自体がその人のことをみる、その人全体をみる、生活をみることにつながっている、ということに気付きました。そして「やっぱり自分は精神科に進んで、その方がやりたいことなんだ」と思って、医者になって3年目から精神科の道に進んだという感じです。

訪問介護で気付いた「生活者に寄り添う」ということ

私は学生時代に、訪問介護の実習をしました。2回目の2年生の後期なのですが、その時に毎月同じ曜日に訪問介護の実習に行っていました。要は留年したのですが、前期だけ留年して後期がフリーになってしまいました。部活もやっているので、どこか行くわけにもいかないし、そんなにお金もないし、遊んでいられないし、どうしようかと思った時に、みさと健和病院の当時の医学生担当の方から「じゃあこういう実習をやってみたらどうだい?」とお誘いいただいたんですね。そこで9月~2月まで5か月くらい実習させてもらいました。実習した地域は東京都足立区で、認知症のご夫婦の入浴介助、古いアパートに住んでいる独居男性のところなどに行っていました。毎月同じ曜日なので、訪問に行く先も固定なんです。なので、その5か月間での変化も見ることができました。

 

一番印象に残っているのがALSを患って在宅療養中の男性で、訪問介護として調理や食事介助、身の回りのお掃除などのサポートに入らせてもらいました。そこで気付いたのは、ALSという病気と関わっているのではなくて、生活者に寄り添うということです。今目の前にいるのは、病を持った人であって、病気自体と向き合っているわけではない。その人の生活に具体的にどういうサポートができるのかというところに特化しているのが介護だと、そういうところに気付きました。

 

そういった中で、先ほどの太田先生の講演でもありましたが、嘱託殺人のようなことが何で起きるんだろう。これってどうなのかなぁ、と考えました。

 

皆さん、受験を経験して、尊厳死とか安楽死ということも知っていると思います。現在の日本では法律で殺人に値するので禁止されています。あと健康がいいことだというような風潮があるし、それがいいことだから、こうして皆さんも医者を目指していると思うのですが、これらは本当に正しいのか、間違っているのか、ということを考えたことはあるでしょうか。

 

私も学生になるまでは、ありませんでした。尊厳死っていいことだなぁ、と思ったりしたこともあるのですが、難しい話です、本当に。答えがないです。それを考えていけたらと思います。

「価値」の多様性に寄り添う

ひとつは健康第一主義に関してなのですが、“Healthism”というものがあります。日本では1960~70年ぐらいからだとは思いますが、「人々が健康な状態を達成しようとすることが、強制されることを通してではなく、積極的に自ら進んで心がけて、それを実践しようという社会現象あるいはイデオロギー的実践」というものです。

これはある意味、経済が成長してこれが当然のようになってしまったのが、今の世の中だと思うんです。健康が第一。昔は一病息災なんて言いましたが、今は無病息災というのも、そのひとつだと思います。そういう社会的な潮流の中で、医療は何ができるのか。狭義には医の行為、広義には保健・福祉を含むヘルスケアです。このように世の中全体が健康であって、長生きすることがよいことである、という風潮になっています。これはいいことなのかもしれないですが、苦しいことでもあるんです。

 

仏教には「生老病死」という言葉があって、これは人間が歳をとるごとに経験することですが、苦しいことの代表的なものとして扱われています。生きること自体が大変なんです。生まれること、お母さんの産道を通って生まれること自体がまず大変なことだし、その後、命を紡いでいくということも大変。ある意味、奇跡の連続だと私は思っています。歳をとってさまざまなことが衰えて、若かった頃のようにできなくなってくるのはすごく苦しいことだし、歳をとってくればさまざまな病気になる。若い頃から病気になる方もいます。私自身も腎臓の病気を持っていますが、病気にかかるということもすごく苦しい。それで生活にいちいち制約を設けられたり、できることができなくなったり。最後、死ぬ時は孤独だ、なんて言いますが、最後は死んでいくことも苦しいこと。

つまり、人生自体が苦しいんですよ。そういう中で生きていることはすごいことです。皆さんも生きているし、目の前に現れる患者さんたちも生きている。みんなそういった命なんだなぁ、とまず考えたいんですね。

 

命、健康の「価値」を考える前に、「価値」というそのものを考えたいのですが、それには決まったものはないと思うんです。一人ひとりがそれぞれ持っているもので、多様性があるものだと。

家族観、価値観、出産・育児など、価値観は多様だと思います。結婚したら夫婦別姓だ、とかもあるし、相手の親と住みたくないとか、子どもを産みたい・産みたくない、というのもありますよね。仕事もバリバリ働くのがいいとか、ゆとりをもって週3日・4日くらい働けば十分なんじゃないか、というのもあるし。金銭感覚、1000万するものを買うのが当たり前だという人もいるかもしれない。生命の尊厳(DNARやACP)をどう選ぶのかといったこともそれぞれですよね。趣味嗜好、宗教観など、本当に人それぞれです。これは強要することのできないものです。

その差を生む理由もさまざまで、どういうところで育ってきたのか、どういう仕事に就いているのかというところで変わってきます。どういう教育を受けて、北国なのか南国なのかでも変わってくるし、キリスト教なのか仏教なのか、ヒンドゥー教かイスラム教なのかでも変わってくるでしょう。そういう人たちがこの社会の中で生きているんです。それがリアルな社会で、いくら日本やアメリカ、中国と言っても、そういう国ごとの差もあるけれど、その国の中でもそれぞれの価値観があって、もう多様性ばかりですよね。そうすると、医療者はその「価値観」のはざまに立たされるわけです。

 

先ほど、太田先生から「人工呼吸器をつける、つけない」という話がありました。「急変時には延命措置を行いますか?」「臓器提供しますか?」などの場面にも遭遇します。進行性の病気を抱えて家で暮らし続けるのは大変ですが、「あらゆるサービスを導入して家で療養しますか?

あるいは家族がみきれないから病院で療養しますか?」とか。認知症でも「施設に入りますか?グループホームに入りますか?自宅でサービスを利用しますか?」とか。そういうことが家族間で意見が違うこともあります。そういう選択の時々に医療者が関わることになってきます。本当に価値観というものを常に考えさせられる仕事です。

 

そんな仕事なのですが、ところで、生命に「価値」ってあるんでしょうか。権力がありそうな人たち、政治家だったり医者だったり、お給料がよさそうな人たちもいます。テレビ番組に出ているような有名人、芸能人、ギャラが高い人たちもいます。運転手さんなどのエッセンシャルワーカー、このコロナ禍で言われ始めましたよね。生活に欠かせないのですが、決してお給料は高くない。ゴミ収集の方々や、水道とかガスに関わっている人、運送の人たち。医療、介護の現場なども改めて話題になりましたね。

また、障害を抱えた方々、車椅子で生活しているけれども生き生きと仕事をしている人もいれば、うつや統合失調症、心の病を抱えた人たちもいます。それぞれの価値に違いがあるのでしょうか。偉い人が、あるいは能力の高い人が生きる価値があって、そうでない人は生きる価値がないのでしょうか。では、そういういろんな人たちが生きていくためには、この社会はどうすればいいのでしょうか。すごく難しいテーマなのではないかと思います。

 

医療者というのは、そうやって、生活している人に寄り添う仕事なんですね。ではその「生活者に寄り添う」ってなんだろう。例えば、訪問介護に入るにあたって、この人はどういうところに住んでいるのか、マンションなのか一戸建てなのか、どういう部屋で、主な生活場所はリビングなのかベッドルームなのか、というところから始まり、どういう病気を持っていて、一緒に住んでいる人がどういう人で、主な介護者は誰で、とかいう情報がまず必要なわけですね。でもそういう情報だけでは、その人がどういうふうに生きているのか、というのがまだ見えてこない。直接その人とやりとりをして、話をして、ようやくその人の価値観、生き様というものが見えてきます。でもその見えてきたものというのもごく一部でしかなくて、見えていたものがすべてのように感じるのですが、ある意味でそのタイミングで光の当たった場所しか見えていないんです。舞台上で例えると、見えている舞台の上だけでなく、本当は舞台の裏手の方に何かあるかもしれないし、袖の方に人が隠れているかもしれない。あるいは奈落に人がいるかもしれない。ぱっと見たところがすべてだと思ってはいけないんですよね。

 

「生活者に寄り添う」って、どうやったらその人を知ることができるんだろうということにもつながってきます。それにはずっと対話し続けるしかないんだろう、対話し続けてもまだまだ見えていない部分もあるんだろうと思います。患者さんの生活を知るところからすべてが始まるんだと思います。

患者さん、家族の思いを置き去りにしないためには

もう皆さんも“Evidence based medicine”は知っている言葉だと思いますが、医学は科学に基づくものであるので、そのエビデンスというものが今まで蓄積されていて「これをやるといい医療だ」「これをやらないと悪い医療だ」というふうになってきています。内科、外科などそれぞれそういうふうな医療になってきて、そこを目指すようになっています。

 

そうなると、そのエビデンスの高い治療が医療の目指すところになってきてしまって、その患者さんや家族の思いが置き去りになるリスクがあります。「これをやらないと治療にならないから、できない人は受けなくてもいいよ」となってしまいがちですよね。そうすると医療と生活者、患者さんや家族というものは離れて行ってしまいます。

 

では、その両者をつなぐものというのが、“Narrative based medicine”であったり、“Value based practice”というものです。ナラティブというのは、その人の語りということで、高学年の皆さんはよく知っていると思うのですが、OSCEの医療面接で「その人の病気に対する解釈モデルを聞きましょう」なんていうことを勉強します。その”解釈モデル“というのもひとつのナラティブです。

 

いま、「胸が苦しい」と言って受診した人に対して「あなたの今の症状についてどう思っていますか?」と医療者が聞きます。「もしかしたら自分が今まで悪いことをしてきたから罰が当たったんじゃないかと思います」という人もいるかもしれないし、「タバコを吸いすぎたから肺が悪くなったんじゃないかと思います」とか、それぞれの考えがあるんですね。そこから「治りたい」と思っているか、あるいは「もうこのまま死んでしまっていいんだ」「もうこれだけ罪を背負ってきたんだから」みたいなこともあるかもしれません。それを「あなたは肺気腫だから呼吸器をつけましょう」とか「タバコを止めましょう」とか一辺倒にやっていっても、別れてしまう。「まだタバコ吸いたいんです」という人に対して「タバコを止めましょう」といっても関係は進展しませんよね。ではタバコを吸いたい中でもどうやったら今後も医療と関わり続けていけるのだろうか。この人にとっての治療とは何だろうかということを考えることになります。それがナラティブだったり、価値だったりということです。

 

先ほどの「タバコを止めましょう」みたいな話は「パターナリズム」といいます。エビデンスに基づいて「医者がこうだと言ったものに従いましょう」ということですね。「パター」ってラテン語で父親のことなので、日本語で言うと家父長的医療ということになるのかもしれませんが、「父親が言ったからそれに従わなければならない」ということですね。

 

でも今はそういう時代ではなくなっていて、“Shared decision making”=共同意思決定という、医療者と患者さん、家族とが一緒に治療の方向性を決めていこうということが大きく言われています。その考えの背景にあるのは、患者さんは自身の専門家という考えです。医療者というのは当然、医療の専門家です。だからその専門家から意見を出すということは当然、大事なことになってきますが、一方で患者さんというのは自分自身の専門家であるわけです。今までの人生のことを知っている、家族のことを知っている、今後どう生きたいのかを知っている、自分のできる範囲というものを知っている。なので、医療者が一方的に「こうだよ」と言うのではなくて、それぞれがお互いに意見を出し合って「じゃあこうしていきましょうか」というような方向性を決めていくことが大事だと思うんですね。

 

どんな人でも苦労をしています。患者さんや家族だって苦労しているし、医療者自身だって苦労している。それに気付くことがとても大事だと思います。「病気を診ずして病人を診よ」という学祖の言葉が、私の母校の慈恵医大にはありまして、本当にその通りだと思っています。

医療という仕事の魅力

では、実際にこれから皆さんが医学生として学んで、将来医者になっていきます。そうやって医療現場で働いていく皆さんに、そこにはどういった魅力があるのかもお伝えしておきます。専門家という話をしましたが、自分が勉強して学んで得た知識や経験、そういった考えというのを総動員して当たることができる仕事。これはひとつの魅力だと思うんです。かけがえのない仕事だと思います。

 

太田先生の話でもありましたが、多職種で協働すること。医者ってひとりでできるものではないんです。できると思っている人がいたら、大きな誤解です。看護師さんやケアワーカーさん、介護士さん、訪問看護さん、訪問介護さん、ヘルパーさん、薬剤師さん(院内、院外、訪問薬局)、ソーシャルワーカーさん(MSWやPSW)。施設に行けばそこのヘルパーさんや看護師さん、施設の嘱託医などもいるでしょう。そういう中で、医者はチームの一員ですので、医者だけで物事が進むなんていうことはありません。そういう医療者の中での協働というのがありますが、患者さんとも協働するということ。さっきの“Shared decision making”はその通りですよね。患者さんと一緒に物事を行っていく。その人の人生に寄り添うことです。精神科をやっているから、特にそう感じる部分もあると思うのですが、患者さんはなんだかんだで不安なんです。不安だからやってくるし、怖いからやってくるし、困っているから医療にやってくるんです。そういう人たちの人生に寄り添うことができるというのは、なかなかほかにない職業だと思っています。

 

そして、いろいろな形で地域に貢献することができます。直接的に医療活動を行うこともそうだし、医療的な知識を講演して啓発することもできます。予防的に保健などの範囲で活動することもできます。学校に行って生徒たちに伝えることもできるかもしれないし、そうやって地域に貢献することができます。そして、お互いに支えあうことができます。

 

太田先生の話ですごく心に響いたのは、「被災地支援ではなく、交流会と言っている」ということ。これも支え合いだと思います。お互いに感謝して、感謝される。「感謝される仕事に就きたい」ということで医療者を志望する人もいると思いますが、感謝されるだけでなくて、感謝する気持ちも自然と出てきます。こちらが「ありがとう」と患者さんや家族に言っているかな、と思い返します。そういうふうに双方向なものだと思っています。医療者側が一方的に何かを与えるのではなくて、お互いに学びあって成長し合って、自分自身の苦しみを共有するものです。

 

医療者ならではの苦労というものがやっぱりあると思うんです。自分自身だって生活者だし、そこを大事にしてほしいと思います。よく初期研修の間は遅くまで残って勉強して、カルテ書いて、ということがあると思うのですが、それはある意味危険です。自分もひとりの労働者だし、生活者だし、自分の身を守って自分のQOLを悪くしない、ほどほどのところで維持をして、だからこそ患者さんに寄り添うことができると思います。もう苦しくなって、てんやわんやで、となったら、寄り添うことができなくなりますよね。「なんだこの人、こんなことで受診しに来たのか」なんて言ってしまうかもしれない。そうなってはいけないと思います。

学生時代にいろいろな経験をしてほしい

最後になりますが、皆さん、これから学生生活を送っていく中で、経験してほしいことをお伝えできればと思います。医療者として患者さん、家族に何ができるのかということを考えると、もちろん勉強して、医学的な知識や診察能力を身につけて、診断をして、それに基づいた治療を行うのは当然なんです。ただ、それだけでは患者さん、家族との結びつきというか、心と心の結びつきというものが得られないだろうと思うんですね。自分自身がどういうことをされたら、その相手のことを「素敵な人だな」と思えるか考えると、答えは見えてくるのではないかと思います。自分の心が温かくなること、それを相手にもしてほしいです。

 

そのためには想像することだと思うんです。「この人はどういう人なんだろうか」「何に困っているんだろうか」「どんな苦しみを抱えているんだろうか」、それを想像するには、自分自身がいろいろな経験をする必要があると思います。自分が経験しないとやっぱりわからないので、学生のうちになんでもやってほしいと言いたいんです。

 

太田先生も「ボランティアに行ってください」「研修に参加してください」とおっしゃっていました。それは自分の経験を増やす、幅を広げるということになると思います。医学的な勉強は、自然とすることになります。だからこそ学生の時に、特に福祉分野を学んでほしいと思います。民医連は1年生から実習を受け入れています。私も1年生の頃に民医連で実習に行ったのは、認知症のグループホームでした。そこで学んだことは、それぞれのできること、今できる能力を活かすことだったり、「徘徊」ではなく「お出かけ」と呼んで、外に出た人でもどこかに行きたいのだろうから、止めるのではなくて一緒について見守っていくということだったりとか、そういう考えや理念というものは、当時学んで、今でも生きています。

 

あとはアルバイトもしてほしい。どういったことでもいいです。学習塾で講師として働くもよし。人に物事を教える、伝えるという能力も育まれます。接客業もよし。お客さんのほうが上の立場に立つというのは、医者になってからはないだろうから、そういう経験をすることも大事です。あと、部活もやってほしいし、とにかくいろんな経験をしてほしいです。そういう経験から将来自分がどういう医者として働きたいか、考えてほしいです。将来こうなりたいから、今現在は具体的にどういうことを積み重ねていけば、その未来にたどり着くのか、というプランを考えられたら、きっとみんな素敵なお医者さんになれるだろうなと思っています。

 

今日の太田先生のお話と、私の拙い話を参考にして、皆さんが素敵な学生生活を送って、新入生の方は6年後には医者として、素敵な先生として働いてくれれば嬉しいです。ご清聴ありがとうございました。

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