東京民医連 新入生歓迎企画 「医師の使命とは~100人目に向き合う~」レポート

医師の使命とは
~100人目に向き合う~

和田浄史医師 講演

川崎協同病院外科勤務

 

新入生歓迎企画の第2弾は、川崎協同病院で地域に密着した医療を実践しておられる和田 浄史先生に講演していただきました。
外科医として患者さんに向き合うだけでなく、野宿生活者の支援や被災地の医療支援をしたり、東大医学部で講義をしたりと、幅広く活動しておられる和田先生のお話は、医療漫画のランキングの話題から、格差・平和と医師の使命とのかかわりまで、超スケールで広がり、さまざまな課題や思いを参加者の心に残してくれました。

地域医療にあこがれて医師をめざす

僕はもともと、若月俊一先生が書いた『村で病気とたたかう』という本を読んで、地域医療にあこがれて医学部を受験しました。けれども浪人して親から「もう学費がないよ」といわれ、横浜市大に入ってからは入学金も授業料も全部、自分でアルバイトして稼ぎました。

 

当時は医学部を出たら専攻する科を決めていきなり入局する、そういう時代でした。横浜市大は臨床研修の義務化以前から、2年間スーパーローテートしてから、どこに入局するか決めればいいという制度だったので、僕もいろいろ見て自分に合う科を探せばいいと思い、あまり考えずに自分の出た大学の病院で2年間、研修をしました。そしてその間は自由にローテートしていいといわれたので、最初の6ヵ月は麻酔だけかけていました。そのあとは第2外科、集中治療室、救急、第1外科と回りました。

 

何科に入るか決めないといけない頃になると、いろいろな科の上の先生が「もちろんウチにくるよな」といってきます。これがけっこう部活の勧誘より厳しい(笑)。僕もすごく悩みました。当時、集中治療室に尊敬する先生がいて、その先生の下ならやりたいと思いました。

 

集中治療室とか救命救急は、毎日、やることが次々とくる。誰かを救命したら次の人を救命するという感じで、やりがいの瞬間風速はすごいわけです。でもその人が蘇生した後、意識が戻ったか、歩けるようになったか、退院して学校に行ったか、結婚したかなどは一切わからない。そういうことを追っかけている暇はないんです。

 

次々に心肺停止の人が運ばれてくる。その場は一生懸命仕事をして人を助けているけれど、息の長い医療はできないと思いました。逆に外科は、患者さんを外来でずっと自分でみることができます。いろいろ悩んだ末、継続した医療を選択して外科医になろうと思い、第2外科に入局しました。

病院によって求められるものが違う

大学病院の医局は、医局の都合で「君はこっちに行きなさい」「君はあっちに行きなさい」という感じで、1年か2年ごとにローテートさせられます。僕もいろいろな病院に行きました。最後は大学病院で生体肝移植のチームにいました。その後、大学病院をやめて、今は川崎協同病院で仕事をしています。

 

大学病院は大きな手術がいくらでもできます。がんが再発したら、抗がん剤や放射線治療もできる。けれども助からない人を入院で看取れるかといったら、緩和ケア病棟のある大学病院以外はほぼ看取ることができません。助からない患者さんは関連病院を紹介して、そこで亡くなる。人間の死亡率は100%ですから、必ずどこかで死ぬわけです。でも看取りは大学病院の仕事ではない。もちろん家の往診に行くことなどあり得ません。

 

大学病院ほど大きくない病院、たとえば横浜市立市民病院などは、手術もする、再発の治療もする、自分が手術した患者さんが助からない場合も入院で最後まで看取ることもできます。けれどもその人が最期を家で過ごしたいといったら、開業医の先生を紹介してお別れしないといけません。

 

もっと規模の小さい病院は、特別大きな手術や骨髄移植が必要な化学療法などはしませんが、普通の手術はするし再発の治療もする。助からない人の緩和ケアもするし、家で過ごしたいといったら家まで往診して、最後まで主治医を替わることなくその人の人生をみることができます。

 

このように病院の規模とか役割によって、求められるものが全然違う。継続した医療ができる病院とできない病院があるんです。これは役割分担であって優劣ではありません。

 

大学病院の医療を必要とする人もいれば、地域の医療を必要とする人もいる。僕は継続性を求めて外科医になりましたが、何科の医師になるかということと、どんな患者さんにどんな医療を提供したいのかということは全然別の問題だということに、医者になってから気がついたのです。そこで転職しました。

今勤めている川崎協同病院は267床の小さな病院です。赤ちゃんが生まれて小児科で健診しながらすくすくと大きくなって、インフルエンザにかかったりすれば外来で治療を受けながら健康に成人します。そのあと検診で胃がんでも見つかれば僕らが手術し、療養が必要になれば老人保健施設に行くこともできるし、在宅で訪問診療や訪問介護をしながら、亡くなるまで片時も離れることなく主治医でいることができます。

 

この病院はさらに健康な人ともつながっています。民医連の診療所や病院は、地域の共同組織の人が自分のヘルスプロモーションのために出入りしたり、いろいろなつながりがあります。健康なときでも住民とのつながりが切れないというのは、僕にとっては究極の継続性でした。患者さんのお宅へ行っていろいろな病気の話をしたり、クイズをしながら患者さんの病気に関する質問に答えたり。これから病気になるかもしれない人、病気になっているのに気づかないで生活している人にもアプローチしているのです。

 

患者さんが調子が悪くて通院できなくなったら、こちらから往診することもできます。小さい地域の病院だから患者さんは病院の近くに住んでいます。だから患者さんが家にいたいといったらこちらから行って、診療所や訪問看護師の手を借りて家で点滴などをしながら過ごすことができる。そういうシステムがあるわけです。

 

地域に1000人いたら1000人全員いつかは死にます。僕はその人たちの最期を真心こめて看取るのも医療者の仕事だと思っています。地域で亡くなるのならうちの病院で亡くなってほしい、地域で頑張って生活して最期まで地域でいてほしいと思っています。

 

胃がんの手術をして5年たったら「再発はほとんどないので治ったと思ってくださいね」と消化器外科の医者はいいます。僕も大学病院にいたときは外来でこのセリフを何10回といっていましたが、その患者さんは僕の前々任の医師が手術した人だったりするわけです。でも川崎協同病院にきて5年たって、自分で手術した患者さんに「5年たちましたね、おめでとうございます」といったときはジーンとした。

 

患者さんと一緒に年をとって一緒にひげが白くなって初めてわかることがあると、地域の医療をしてたくさん知りました。

 

地域の人1000人を1ヵ月間追跡すると、何か体調が悪くなった人が9割くらいいますが、病院を受診した人は300人くらい、大学病院を受診した人は6人、大学病院に入院した人は0.3人、つまり3000に1人くらいです。けれども皆さんがこれから実習などで行く大学病院の病棟は満員です。いろいろな地域からきた0.3人で埋まっています。でも僕らは違う。

 

病院にきた人はみんな診ますが、病院にこない人のところにも出かけていきます。調子の悪い人のところにも行くし、健康な人のところにも「こういう症状が出てきたら危ないですよ」という話をしに行ったりして、1000人全員をみている。これから病気になるかもしれない人、病気になってまだ気がついていない人も、僕らが健康を守っている人たちなんです。

 

そういう意味では大きな病院のスタンスとは全く違う医療を僕たちはしています。どちらも必要な医療です。僕らのほうがいい医療をしているというつもりはありませんが、僕たちも求められる医療をしているのです。もちろん大学病院のドクターも大切です。けれども医者になった人全員が大学病院で働く必要はないのです。

 

皆、大学病院で診療できる医師を続けたいと思って、専門医などの資格を早く取ろうとしますが、そういう医師ばかりだったら地域を守る医師がいなくなってしまいます。だからきちんと棲み分けしないといけないのです。地域は地域で、きちんと誇りを持って仕事をする医師が必要です。

医者はブラックジャックがお好き?

「医師が選ぶ、最も好きな医療漫画ランキング」というのを見たことがありますか?第10位「麻酔科医ハナ」、第9位「メスよ輝け!」、第8位「ゴッドハンド輝」、第7位「Dr.コトー診療所」、第6位「研修医なな子」、第5位「スーパードクターK」、第4位「医龍」。ではトップスリーは何でしょう?第3位が「ブラックジャックによろしく」、第2位は「JIN -仁-」、そして第1位はまさかの「ブラックジャック」です。

 

このランキングは3000人以上の医者に聞いて、なんとブラックジャックと答えた人が54%います。ブラックジャックがほかの漫画を全部足し合わせてもかなわないくらい圧倒的な1位なんです。

 

でもこれはちょっとデータが古い。ということで2018年のランキングも見てみると、第1位はこれまたブラックジャックです。それも2012年よりもさらに多い55.2%のドクターがブラックジャックを選んでいる。僕が子どもの頃からある漫画なのに、ブラックジャックがどうして今もこんなにドクターの心を捉えているのでしょうか。

 

ブラックジャックは無免許で、弱い者の味方だけど、金持ちから法外な治療費を取ったり、自然保護や人権のことを考えたり、ノーベル賞や肩書きは興味ないといって肩書きを否定しているし、医師の使命のようなことが書かれていたりします。たとえば火傷で、ヤクザのお父さんの皮膚をブラックジャックに移植してもらって助かった子どもがからかわれたとき、“バッキャーロ。自分の命はおとうちゃんからもらったものだ”というシーンでは、人を見た目で判断してレッテルを貼ることへの警告をしています。

 

あるいは友だちのドクター・キリコが手の施しようのない患者の安楽死を請け負ったことを皮肉られたときには、命が助かるに越したことはないが、最期を看取るときに本当に苦しがっていたらどうすると、生命倫理に正面から向き合う問題提起をしています。

 

またブラックジャックが尊敬していた本間先生を助けることができずに亡くしてしまったとき、本間先生は“人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね”といって、医者は全能ではないし、命を操作するような仕事ではないとたしなめます。

 

今のドラマは「私は失敗しないので」とかいって本当に失敗しないけど、ブラックジャックは失敗や葛藤も隠さない。また、医療で人の命を救ったら、今度は人口が増えて食料が足りなくなり、人が餓死していくことにつながってしまう。そういう場面でブラックジャックは「医者は何のためにあるんだ」と叫びます。

患者にとっての最善を尽くす

医者の使命は、何だと思いますか?たぶん皆、心の中で考えていると思います。命を助けることでしょ、とか、症状や痛みをとったり、健康を取り戻したり、障害のある人が障害をのり越えて社会復帰したり、あるいは予防医学で病気にならないようにすることなど。

 

広辞苑などには、使命は「与えられた重大な務め、責任を持って果たさなければならない任務」と書かれています。皆さんにはリスボン宣言というのを知っておいてほしいんですが、そこには「医師は、常に自分の良心に照らしつつ行動し、常に患者にとっての最善を尽くすべきである」と書かれています。では患者にとっての最善とは何でしょう?

 

患者が求めているのはQOL、クオリティオブライフです。生命の質とか生活の質、人生の質とか、いろいろな訳がありますが、ひと言でいうと「幸せかどうか」、「満足しているかどうか」です。長生きできるかどうかとか、痛みがとれているかどうかではありません。どんな治療であろうと、患者さんが幸せで満足するためだけにするもので、どんな上の先生にいわれようが、患者さんを不幸にすることはやってはいけません。

 

たとえばがんが全身に転移していて、Xという抗がん剤の点滴をしなければ命は4週間、Xという抗がん剤を使えば命が6週間に延びるという確実な研究結果があるとします。皆さんが主治医だったら患者さんにどう勧めますか?

 

目の前の患者さんが、その抗がん剤治療をやりたいかどうかは、聞かないとわかりません。聞かないで医者が決めてはいけないんです。自分の良心に照らしつつ行動するのですが、患者さんにとっての最善は聞かないとわからない。患者さんが「4週間が6週間になっても、どっちにしても助からないんですよね。今でもこんなに痛くて苦しいのに、辛い時間が2週間も延びるなんて絶対やめてください」というのに、エビデンスがあるからといってこの抗がん剤を投与すると、患者さんのクオリティオブライフは下がる可能性があります。

 

でも、患者さんがこう言ったらどうでしょう。「あと1ヵ月で初孫が生まれます。どうせ死ぬなら初孫の顔を見てから死にたい。どんな辛い副作用でも耐えるので、ぜひお願いします」。この患者さんのクオリティオブライフは、抗がん剤を投与することで上がる可能性があります。全く同じ薬で、同じエビデンスがあっても、患者さんが幸せになる場合と不幸になる場合があるんです。

 

皆さんだったら4週間が6週間になるといわれたらやりますか?多くの人がためらい「んー」といいましたね。では4週間が6年になるといわれたらどうですか?(挙手多数)皆さんの心の中のものさしは、患者さんや家族と同じです。幸せになるか、満足できるかで決めているのです。それなのに僕らが、研究結果で予後が○週間延びるからやりましょうというのは違います。○週間延びるけどどうしますか、と聞かなくてはいけません。患者さんはこの治療で人生が豊かになるでしょうか、幸せになるでしょうか?

ある直腸がんの終末期の患者さんは、もう自分では何も食べられないくらい調子が悪いのに、「自分のまわりでみんなでお寿司を食べてください」、というのです。普通、食べられない人のまわりで食べ物の話をしたり食べたりするのは、社会通念上いいことではないと思いますよね。でもこの患者さんはあまりにも冷静に何度もいうので、それじゃあみんなで食べようということになりました。

 

この人は小樽出身で、お寿司のネタの話をしたり、お寿司を食べてる人にワイワイ囲まれるのが大好きだったんですね。それでものすごく喜んでくれた。そのとき僕らもハッとしたんです。こんなことをしたら社会通念上よくない、患者さんが喜ぶはずがないと、自分たちの価値観で勝手に決めていたのかもしれない、間違ったケアをしていたのかもしれないと、反省した瞬間でした。

 

またある患者さんは胃がんで再発して、ついにおしっこも1滴も出なくなって、今日にも死ぬだろうという状態になりました。その患者さんが突然、「来週の日曜に娘が結婚するんですが、その日、私はもうこの世にいませんよね」と聞いたんです。「そんなこといわないで頑張って娘さんの晴れ姿見ましょうよ」とかいえばいい雰囲気だったかもしれないけれど、今日おしっこが1滴も出ていないのに来週の日曜なんて無理だと、僕も本人も思っているわけです。

 

そこで「今日やりましょう」といって、患者さんをベッドごと会議室に運んで、新郎新婦と双方の両親と兄弟が全員揃って結婚祝いをしたら、すごく喜んでくれました。この人は3日後に亡くなりましたが、来週まで頑張りましょうなどといっていたら、娘さんの晴れ姿を見ることはできませんでした。

 

患者さんのクオリティオブライフを上げる、幸せや満足を上げるのは医療だけとは限りません。しかしそれをする、患者さんにとっての最善を追求するのが医師の使命です。看護師とかソーシャルワーカーとかケアマネージャーとか、いろいろな人の手を借りてかまわないので、みんなで自分がかかわった患者さんの人生を豊かにできるかどうか考えるのです。

 

こんな患者さんもいます。小指を包帯でぐるぐる巻きにしているので、「指は?」と聞くと、「あるよ」とポケットから出します。「今なら指をつなげるから形成外科を紹介します」と電話をかけようとすると、「命の代わりに落とした指をつなげて帰ったら次はどうなると思う?」というので、「次は命がないですね」というと「そうだ」というのです。この人は奥さんと子どものために、指を失ってもいいから足を洗って堅気になろうと思って指を落としたのです。

 

この人の命を助けるためには、指はつないではいけないのです。つなげられるのだからつなげなきゃダメです、といい張ったら命がないのです。医学的に正しい選択をしたらそれでいいのだろうか。医者は自分の良心に照らして行動したかもしれないけれど、患者さんにとっての最善を尽くしたかどうか。正しい医療と、患者さんの人生を豊かにする医療は違います。

医者に必要な能力

さて、医者に必要な能力は何だと思いますか?計算する力とか、生物学とか語学力とか記憶力とか、マネジメントするスピードとか、そういう能力を持っている人が入学試験に受かって医学部に入学していると思います。でもこれらはすべてAIにはかないません。では医師に必要な力は何でしょう?

 

一番必要なのはコミュニケーション力です。患者さんや家族、看護師やリハビリのセラピストなど他の職種の人たちとコミュニケーションを取る力。自分の考えをいって、相手の考えを聞き、落としどころを見つけるような力が必要です。

 

2つ目はリーダーシップです。いざというとき医療の責任を取るのは医者です。ただし医者はチームの中で最も責任が大きいからこそ、最も謙虚なリーダーでなければいけません。偉そうに一方的に指示して服従させるようなリーダーシップではなく、みんなのいうことをよく聞いてビジョンを共有して下から支えるようなリーダーシップ、そういうサーバントリーダーシップが必要です。

 

3つ目は想像する力です。ニック・ブイチチという人を知っていますか?乙武洋匡さんと同じ先天性四肢切断の人です。その人がこういっています。

 

「私は世間的には障害者ということになります。でも手足がないことで『本当の障害』を取り除くことができました。本当の障害って何だと思いますか?」

 

ブイチチさんは泳いだりゴルフしたり絵を描いたり、いろいろなことをしています。サーフィンやスカイダイビングもして、奥さんや子どももいます。この人は、本当の障害というのは自分の人生に自分で限界を設定してしまうこと、これがお前の限界だという他人からの言葉をうのみにしてしまうことだといっています。そして自分はものすごく幸せだし、何でもできる、人生に限界はないといっているのです。

 

それを僕らが勝手に見た目で判断して、こういう医療をするのが適切だとか、こういうケアを提供するのがいいと考えてはいけないのです。共同のいとなみと呼んでいますが、きちんと患者さんと対話して、患者さんの人生がどうしたら豊かになるのかをみんなで考え続けるのが、僕らの仕事なんです。

 

あるとき救急車で、顔が30㎝切れているホームレスの男性が搬送されてきました。顔が30㎝も切れるはずがないと思っていましたが、片方の頬から鼻の下を通って反対側の耳の下から後頭部まで、本当に切れていたんです。公園で寝ていたら高校生にカッターか何かで切られたらしい。それで傷を洗って縫合して、家がないので入院してもらいました。治ってから話を聞くと、この人はとてもいい人だったことがわかりました。

 

地元の工場で働いて職場結婚もして幸せに暮らしていたのに、奥さんと子どもが出産で亡くなってしまい、淋しさからお酒を飲むようになりました。5年前に突然リストラされ、部屋代が払えなくなってホームレスになったのです。それなのに「おれを襲ったやつもよっぽどイライラしてたんだよ。みんなつらいんだよ」と加害者にまで共感しているんです。運ばれてきたときには、こういう人生を背負った人だとはわかりません。いい信頼関係をつくって、その人の人生を豊かにするためにどうすればいいのか、キチンと向き合わないと話してくれないのです。

医師の仕事は“トロッコ問題”の連続

4つ目は責任感です。医療に「絶対」はありません。どんなに最善を尽くしても患者さんが亡くなってしまうこともあるし、大きな合併症になってしまうこともあります。大事なのは失敗しないことではなくて、逃げないことです。僕がいる病院では手術の同意書に「絶対に合併症は起こしません」などというウソを書いてはいけないと教えています。合併症が起きることもあります、再手術が必要になることもあります、と書いたうえで「いかなる場合でも、主治医としての責任を持って最善を尽くします」と書かなかったら手術してはいけないという決まりがあるのです。

 

大学入試は4問完答したら5問目は捨てても合格します。でも僕らの仕事は5問目を諦めたら患者さんは助からない。最善を尽くさないと死んでしまいます。しかも最善を尽くして完答したと思ったときでも、助からないことがあります。そういうとき、僕らは逃げることができません。

 

ネガティブケイパビリティという言葉があります。これは僕が大切にしている、医師に必要な能力です。医師の仕事は感謝されることばかりではありません。「治せないんですか」「合併症って医療ミスですよね」等々、いろいろいわれます。治せないこと、助けられないこともあります。そういう場合に信頼関係ができていなかったら「ほかの病院に行きます」「賠償してください」などとなってしまう。それでも主治医として患者さんに向き合い続けなければいけない。気持ちが押しつぶされそうになっても投げ出さない力が、ネガティブケイパビリティです。

 

皆さん、トロッコ問題はよく知っていると思います。線路上に5人、引き込み線上に1人の作業員がいるところへトロッコが猛スピードで接近してきます。何もしなければ5人が轢かれ、引き込み線に誘導する切換えレバーを引けば5人は助かるが引き込み線上の1人が轢かれます。そのとき、あなたならどうしますか、という問題です。1人が死んでも5人助かるほうがいい、という考えを功利主義、あるいは最大多数の最大幸福といいます。しかしこれには一部の犠牲が伴います。日本の安全を守るためには、国土の0.6%しかない沖縄に基地が集中してもしかたがない。電気の安全供給のためには福島みたいな原発立地県に負担がかかってもしかたがない。日本人全体を守るためには数100人の自衛隊員に犠牲が出てもしかたがない。これらはみな功利主義の考え方で、一部の犠牲はしかたがないという考え方です。

ではもし100人いたら、何人までなら切り捨ててもいいですか?20人までならいいと思う人?90人助かれば10人くらいはしかたがないと思う人?99人助かれば、1人の犠牲はしかたがないですか?どこで線を引きますか?100人のうち1人でも助からなくていいと考えたら、「命の重さは平等だ」という資格はありません。

 

医師の仕事は簡単に答えが出せないことばかりです。毎日トロッコ問題みたいなことばかりなんです。どうして1人を助けることができなかったんだろうと悩み続ける力、何かを選択しないといけないとしても、それでよかったのかどうか考え続ける力が必要です。

誰でも明日100番目になるかもしれない

たとえば僕の病院がある川崎市では100番目はホームレスかもしれないし、日本の100番目は8年間仮設住宅で暮らす被災地の人や、日米地位協定と闘い続ける沖縄の人かもしれない。世界の100番目は戦火におびえ爆死していく人や、1歳にもなれずに餓死していく子どもたちかもしれません。こういう人たちはどんなに医療を充実させても救えないんです。なぜだと思いますか?彼らが侵害されているのは、健康ではなく人権だからです。

 

人はいつ弱者になるか、誰もわかりません。僕も明日事故にあうかもしれないし、脳梗塞で動けなくなるかもしれない。明日、100番目になる可能性は皆にあるのです。人は皆、いずれは病気になるし死んでいく。弱者になっていきます。だから民医連は無差別平等の医療と福祉の実現をめざしています。一部の犠牲はしかたがないといわずに、一番困っている100番目の人が確実に助かるような医療や福祉、すべての人が尊重される社会をめざしているのです。

 

『世界がもし100人の村だったら』という本のことを、皆さんは知っていると思います。皆さんは大学に入って、携帯もパソコンも持っている。そういう皆さんは世界がもし100人の村だったら何番目でしょう。よく考えてみてください。

厄介な患者は臨床の神様

僕が一番好きな言葉は、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉です。自分は今、仕事があって家族も家もあって、まあまあ幸せかもしれない。でも世界では何1000万人の子どもたちが食べるものもなくて餓死している。あるいは戦火におびえている人たちがいる。そういう世の中に生きて、本当に自分は心から幸せといっていいんだろうか。世界中の人が1人残らず幸せになってはじめて自分も心の底から幸せだと思えるという宮沢賢治の言葉は、大切だと思っています。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」は『農民芸術概論綱要』(宮沢賢治著)の序論に掲載されています。

僕は川崎で野宿生活者支援のNPOもしています。そういう野宿生活者は、「駅前で頭を下げてもお金をくれる人はいないけれど、200円持っている仲間は100円くれる、その日100円なかったらどうなるかわかっているから、くれるんだ」といいます。簡易宿泊所よりも、そういう助け合える仲間のほうが大切だと。自転車を持っている野宿生活者は、何10㎞も離れたところまで空き缶拾いに行きます。近くの空き缶拾ったら自転車を持っていない仲間や足の悪い仲間が生きていけないから、遠くまで行くというのです。

 

あるホームレスの男性は、1週間食事がとれなくて吐き続けていたので、NPOの職員が市立病院に連れて行きました。けれども診察では指1本触れず、血液検査やレントゲンもとらずに、「2、3日食べなければ治ります」といわれたんです。「1週間吐き続けていたんですから食べなかったら死んでしまいますよ」とNPOの職員がいうと、「心配なら救急車呼んだらどうですか」というので、その病院の玄関先から救急車で僕のいる病院に運ばれてきたわけです。その患者さんはレントゲンをとると下行結腸がんの腸閉塞とわかったので、すぐに手術をして元気になりました。今はケア付き住宅に入って、幸せに生活しています。

 

一番面倒くさい人、みたくない人が一番困っている人です。患者さんの人権を守れたと感じられて初めて無差別・平等の医療を感じることができます。寺沢秀一先生が「厄介な患者を見たら、臨床の神様がその患者に化けてあなたを試しにきたと思いなさい」と教えてくれました。当直で、薬物中毒とかやくざ、アル中の人とかがきていやだなと思ったときこそ、これは臨床の神様がオレを試しているんだと思うのです。

 

民医連の和田浩先生は「援助したくない患者をみたら、その患者の裏に隠された貧困の存在を疑いなさい」、「ネガティブな方向に心の針が振れたら、それは貧困というテスターだと思ってください」といっています。お金に困っていないだろうかと思ってその患者さんの人生と向き合うと、解決策が見えてきます。でもそのまま帰すとまたお酒に浸ってしまうかもしれません。

格差と健康の関係

「貧しいほど健康ではない」というエビデンスが証明されているのを知っていますか?先進国でも発展途上国でも、すべての国で健康は社会階層の勾配にしたがってお金持ちほど健康だということが、WHOによって証明されてしまったのです。格差が健康を規定しているなら、格差をなくすのも医師の使命ではないでしょうか。

 

たとえば時給1900円の人と時給100円の人がいたとします。2人の時給は平均すれば1000円ですが、実際には時給1900円の人は生きていけるけど、100円の人は生きていけません。ではどうしたら2人とも生きていけるようになると思いますか?そう、時給1900円の人が時給100円の人に900円あげればいいのです。

 

世界のトップ62人の資産が、世界の下半分の36億人の資産総額と同じです。そのうえこの資産は、ほとんど使われずに子どもたちに受け継がれていくだけで、誰の役にも立っていません。会社で一生懸命働いている現場の人が、ものすごくいい仕事をしていい商品を作って、それが売れて儲かったら大企業の内部留保はどんどん上がっていくのに、それを作っている現場の労働者の賃金はどんどん下がって、みんな過労死してしまう。こんな世の中でいいんだろうかと思いますよね。

 

皆さんは将来、専門的な医療を提供する医師になっても、地域で医療を提供する医師になっても、どちらでもかまいません。ジェネラリストとして働く総合医も、スペシャリストとして働く専門医も、どちらもカッコいい、助けてといっているすべての患者さんのニーズさえ満たしていればね。けれども患者さんを選んで一部の患者さんしかみないとしたら、どちらであってもカッコ悪い。大学病院にいようが診療所にいようが、自分がみたい人だけみていたらカッコ悪いですよ。

 

民医連の病院は差額室料を取らないと決めています。けれども差額室料はほとんどの病院が取っています。日本で一番、差額室料が高い病院には、1泊73万5000円の部屋もあります。これでは、この部屋なら空いていますといわれても入院するのは無理に決まっています。差額室料はもちろんすべて自費です。民医連は、こうしたお金のあるなしで差別するようなシステムはなくそうとしているのです。

健康と平和は直結している

健康の定義があります。「単に病気でない、虚弱でないというだけでなく、身体的、精神的そして社会的に完全に良好な状態をさす」というもので、1978年にWHOとUNICEFの主導で出されたアルマ・アタ宣言の中に書かれています。ここでWHOがいっている「健康」は、平和な世の中でないと手に入りません。戦争している国では、兵隊は精神的に病んでいるし社会的には最悪の状況だし、WHOのいう健康は絶対無理です。1986年の世界ヘルスプロモーション会議で出されたオタワ憲章でも、健康に必要な条件として平和が一番最初にあげられています。これはグローバルスタンダードです。健康と平和が直結しているというのは、世界の常識なんです。

 

命は金で買えないということは皆、知っています。一方で命は大金に換えることができます。戦争をけしかければ軍需産業が儲かるからです。軍需産業が戦争をけしかけて儲けているのです。ライオンがシマウマを食べるように、動物は他の命を奪って命をつなぎます。でも金儲けのために他の命を奪う動物は人間だけです。それでいいのか、よくないと民医連はいっています。聖路加国際病院の日野原先生もわざわざメッセージを出しています。「人のいのちの重要性は、医師が一番よく知っています。医師こそ平和の最前線に立って、行動すべきと私は考えています」。なぜこれを出したかというと、日野原先生は戦争に行って大変なものを見てしまった、それを二度と繰り返してはいけないと思っているからです。

そして「いのちを守る」仕事をする

最後に、皆さんがこれから社会人として世の中に貢献するときに、「ポジティブリスト」と「ネガティブリスト」の2つのマインドセットがあるということを覚えておいてください。

 

ポジティブリストというのは、目的を確実に達成するため決められたこと以外はしないというスタンスです。

たとえばDMAT(災害派遣医療チーム)のドクターが被災地に入って医療を必要とする人を次々助けていくのがポジティブリストの仕事です。

 

逆にネガティブリストは、目的を達成するために、してはいけないこと以外は何をしてもよいというスタンスです。

たとえば被災地に入って、ドクターであっても足浴、傾聴、トイレの掃除など、できることは何でもやるのがネガティブリストです。

 

どっちがいいかではなく、どっちもできなくてはいけません。手術をするときは、何でもやりますではなく、専門性を活かしたいい手術をしなくてはいけません。でも在宅の診療や緩和ケアのときにはできることは何でもしたほうがいい。今自分はどっちのマインドセットで仕事をしたら一番よく貢献できるか、うまく切り替えられるドクターがいいドクターです。

 

僕は今いる病院にきてから往診したり、東大医学部で講義したり、在日外国人や野宿生活者の支援をしたり、被災地の医療支援をしたり、自分が求められてできることなら何でもやろうと思ってやってきました。20年間今の病院で仕事をしてきて、一昨年、思いがけず自分が医師をめざすきっかけとなった若月先生の賞をいただきました。学会などでは何の肩書きもなくても、そうやって見てくれている人がいるというのはありがたいことだと思います。

ブラックジャックの六等星という話に、「六等星はほとんど目に見えないくらいかすかな星だが、小さく見えるのは遠くにあるからで、実際は一等星よりも何10倍も大きな星かもしれない。世の中には六等星みたいに前に出てこなくても遠くでデカイ仕事をしている人がいるんだ」とブラックジャックがいう場面があります。そういう仕事が、今後自分が医者を続けるうえでできれば、それを地域の人が喜んでくれればいいと思って仕事をしています。

 

医師の使命には、さっきお話ししたように、命を助けたり症状を和らげたり、健康を取り戻したり障害をのり越えたり、病気を予防したりすることもあるし、その地域で生きてきた人の命を見送ることもあります。また、格差や貧困をなくしたり、人権を守ることも、平和の最前線に立って行動することも、医師の使命です。僕の場合は常に100人いたら100番目の人の人権を守れるかどうかが、行動の指標になっています。医師として以前に、民医連の職員として、医者でなくてもできることもやろうと思っています。

 

もちろん、専門的な仕事をする医師もいなくてはいけません。でも「医師になったら医療に明け暮れよう」という視野の狭い医者にはならないでほしいと思います。人権は関係ないとか、100番目の人はしかたがないとかいわない医者になってほしい。そして、一番困っている人の人権を、たくさんの仲間と力を合わせて守ることができる医者になってほしいと思います。「いのちを守る」とはそういうことです。

和田 浄史 医師プロフィール

1965年 神奈川県横浜市生まれ。
横浜市立大学医学部卒業。同大学で初期臨床研修修了後、横浜市立市民病院・国立横浜病院・横須賀共済病院・横浜市立大学医学部付属病院等を経て、川崎協同病院外科勤務。
外科医として外来・手術・訪問診療等に携わるほか、緩和ケアチームリーダー・初期研修プログラム責任者・感染対策委員長・医療倫理委員会委員長などを務める。
2017年、第26回若月賞を受賞。

参加した学生からの感想を一部紹介します

  • 漠然と困っている人の味方である医者になりたいと思っていたが、100人目の人に向き合うという話を聞いて自分の考えをより具体化でき、非常にいい経験となった。また平和という大きな目標に関して医者が大きく関わっていることを強く意識するきっかけとなった。
  • 自分は専門医を志していますが、医師としてというか、一人の人として、困っている人を助けてあげることができるような医師になりたいと思います。
  • 医師として100人目の方に目を向けるだとか、ネガティブケイパビリティを高めることなど、印象に残ることばかりでした。医師の役割は病院によっても、地域によっても変わってくると思いますが、100人目の方を忘れず、自分がどんなものを守り抜きたいのか考え続け、悩み続け、前に進んでいきたいと思いました。
  • 元々、地域医療を目指して医学部に入り、今、専門医と揺らぎはじめたところで、それぞれの役割、優劣ではない患者の幸福のために本気で、逃げずに向き合える医師が一番かっこいいという言葉で、医師のあり方、何のための医療かということを改めて考えることができました。
  • 私は総合医を目指しているので、私も100人目まで助けられる、差別しない総合医になろうと思います。
  • “無差別平等” “人権を守る”ということと医療の結びつきについて深く考える機会となりました。100人目に向かい合うことができる医療者に将来はなりたいと思います。
  • 専門書で目先の知識を追うだけでなく、生活の中で考え直すこと、振り返ることの大切さを痛感いたしました。

 

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